プロフィール

みなさん、はじめまして。

“休むこと”と”働くこと”のバランスに日夜全神経を注いでいるキヨと申します。

普段はX(旧twitter)を中心に、休息のアイデアやキャリアの複線化についての情報を発信しています。

ここでお伝えしたいこと

■順風満帆に思えた人生から、なぜ適応障害とうつ病になったのか
■療養中に感じた辛かったこと、回復のきっかけ
■休むことの大切さと難しさ
■病気を経験して得たこと、変わった価値観
■「戦略的休息」を基盤とした「キャリア拡張型複業」の可能性

まず、私の自己紹介をさせてください。

キヨについて
家族  :フルタイムで働く妻と子供2人の4人暮らし
住まい :東京都在住 持ち家(ローン有り)
前職① :社員1万人規模の建設業に新卒入社
前職② :社員20名のITグループ系人材ベンチャー
現在  :複数の仕事を掛け持つ個人事業主(大学教員・人事顧問・カウンセラー…)
資格  :国家資格キャリアコンサルタント、GCDFF-Japanキャリアカウンセラー、社会保険労務士 試験合格、宅建建物取引士、ファイナンシャルプランナー、心理カウンセラー、その他民間資格(元資格マニア)

趣味はサウナです。

新卒入社した会社を適応障害で休職。復帰を失敗し転職するも、2社目でうつ病に悪化して再度休職しました。

2度目の休職時に”人生を賭けて”休むことに専念し、人生を再構築。現在は個人事業主として独立し、常時3つ以上の仕事を掛け持つパラレルワーカーです。上場企業の人事顧問ほか、都内大学工学部准教授、社会学部講師、そして経済産業省リスキリング認定事業のキャリアトレーナーとして活動しています。あと、最近は夫婦でEC事業の運営も始めました。

今でこそ新たな自分、生活を受け入れて穏やかに過ごせていますが、診断を受けた当時は先の見えない閉塞感と家族やローンへの不安に押しつぶされ、本気で自殺を考えるまでどん底でした。

私の年表

田舎から上京し、運よく大企業に拾われました。時間と健康を犠牲にして、能力の足りなさや、低い自己肯定感を必死に補うような社会人生活を長く過ごしていました。

・地方から大学進学のため上京
・知名度のない私立大学から大手企業に運よく就職・・・第一子誕生
・出身大学で決まる出世レースのなかで運よく管理職に昇格・・・住宅購入
適応障害を発症し休職、一度は復職するも3か月で退職
・技術系人材ベンチャー入社、運よく執行役員に紹介
うつ病を発症し休職復職せず退職
・個人事業主として独立 病気と向き合いながら育児・仕事を両立中

多分、運は良いです

一般的にみれば仕事で昇進、マイホームを購入、子宝にも恵まれ「順風満帆」の生活であると思います。

しかし、適応障害うつ病によって、私と家族の生活は一変します。少し振り返らせてください。

身体と心をすり減らして得た幸せ

大学を卒業してからずっと、朝6時から夜22時まで働く生活をしていました。思えば最初から周囲と自分を比較して自信がありませんでした。

周囲の優秀さに負けじと時間と努力で必死にカバーする。でもそれが自分らしさであり美徳と思っていました。

周りが旧帝大で学閥が昇進を左右する環境で、学閥外の自分がまさかの昇格。

それでも自信は持てず『運が良かっただけ』『失敗したら終わり』と殊更に緊張して過ごしました。

プレッシャーが増した分、ますます仕事に時間を費やしました。

仕事に関連する社会人大学院に通い、資格を取得し、学会活動など社外コミュニティでも実績をつくることに必死でした。

子どもができてからも残業は変わらず続きました。

土日は妻が仕事だったため、休日の子どもの面倒は全て私が見ていました。

休みはどこかに連れて行ってあげなければ!親の都合でいろいろな経験をさせてあげられないなんて子どもが可哀想だ!

仕事がどれだけ忙しくても、週末はなるべくレジャー施設やイベントに出かけ、子供を楽しませようとしました。

子供の笑顔を見ていると苦労が報われるような気がしたからです。

ただ日曜の午後には月曜の仕事のことで頭がいっぱいになり、子どもの相手は上の空でした。

子どもができてから自分1人の時間は通勤以外なく、その通勤時間も引き続き自己啓発や勉強に費やしました。

ますます頑張らないとな!

管理職になったこと、親になったことで、周囲からの期待の声かけも増えました。その分プレッシャーもどんどん増していきました。

常に疲労感はありました。しかし・・・

「大した経歴でもない自分が家族を持ち、収入があり、責任ある立場で仕事をしているのだから幸運なんだ。休んでいる場合じゃない!幸せを維持するために自分が頑張らなくては!」

とにかくがむしゃらに走りました。
休むことは悪』であり、全力疾走を続けることで不安を振り払おうと必死でした。

「寝れない」から全ては始まった

最初に異常が出たのは睡眠時間です。布団に入っているけど寝ている実感がない。気が休まらない。それでも朝5時には目が覚める。明らかに異常です。

ショートスリーパーになったかも?これで仕事できる時間が増える!

しかし当時の私はこの変化を前向きに考えたのです。この時点で発想がおかしいですね。

平日のスケジュール
長年、普通だと思っていました

睡眠以外にも変化が表れはじめます。
常に頭痛があり、上司から呼ばれただけで激しい動悸がするようになりました。

管理職のプレッシャーに押しつぶされてはいけない、こんな事でどうする!なんて心が弱いんだ、情けない!」と自分を鼓舞しました。

しかしあまりにも頭痛と動悸が続いたので、内科を受診したのですが特に異常はなく、メンタルクリニックの受診を勧められました。

正直に告白すると最初は、自分がメンタルクリニックにお世話になるなんて、という恥ずかしい想いがありました。

心の病気は弱い人がなるもので自分には関係ないと強がっていたのです。

会社の産業医の紹介と言うこともあり断り辛く、しぶしぶ受診することにしました。

先生に痛みや体調のこと、仕事のことを伝えました。症状を和らげてくれる薬を処方してくれるのだろう、と考えていました。すると、

『適応障害です。休職の希望はありますか?』

『…..はい?』

この人は何を言っているんだろう。
適応障害?休職?わたしが?

まさかの発言に驚愕しました。

会社を休んだら生活はどうなる?

いままで積み上げてきたキャリアは?

家族の生活は?

到底受け入れられませんでした。

気のせいだと自分に言い聞かせ、私は診断を無視してそのまま働き続けました。

家族にも何も伝えませんでした。

診断はデタラメだ。根拠のないことを言って。全く時間の無駄だった!

自分のこれまでの努力やこれからの将来にケチをつけられたように感じ、医師への怒りすら感じていました。

そんな生活がしばらく続いたいつもの帰り道

いつも通り歩いていると、突然自分の頬が濡れていることに気づきました。

『え?水?どこから?』

涙と気づきぬぐった次の瞬間、目の前が夜の暗さ以上に暗くなりました。

平衡感覚を失い、激しい頭痛と吐き気に襲われ膝から崩れ落ちました。

幸い倒れ込みはしませんでしたが、十数秒後、意識が戻り立ち上がった瞬間、身体から異常なまでの汗が噴き出していることに気づきました。

身に起こった予想だにしない出来事に驚きと恐怖を感じたことを今でも鮮明に覚えています。

ここで初めて、私は自分の身体がおかしかったのだと自覚しました。

診断の通り、既にこころと身体は動くことを拒否していたのです。

その翌日、私は病院に行き産業医を経由して休職の申請をしました。

人生で初めての休職です。

『頑張ってきた自分がなぜ?』

それでも、どこか他人事のような不思議な浮遊感がありました。

休職したけど休み方がわからない

全く納得はできませんでしたが、とにかく休むしかありません。
しかし改めて考えると、私は私自身のために休むということをほぼ忘れてしまっていました。

学生時代にハマっていた趣味やスポーツ、ゲームや漫画も遠ざかっていました。

社会人になってからの付き合いのゴルフものめり込むほどではなく、長く無趣味の状態。

子どもが生まれ自分ひとりの時間がなくなって、趣味のことを考えることすら放棄していました。

なので休職はしたけれども何をしたら良いか分かりませんでした。

昇進はもう望めない… それでも降格しないために一日も早く復帰しなければ!

休職中は毎日こんな想いに駆られていました。

日中は将来や自己投資に繋がるようなビジネス書を読み、資格勉強をして時間を無駄にしないようにしようと机に向かいました。

しかしいざやってみると、全く文字が頭に入ってきません。読んでも一切理解できません。文章ではなく記号を眺めるような感覚で一向にページが進みません。

これまで10年近く続けた、数少ない自慢でもあった自主学習や読書の習慣が失われてしまった。

猛烈な自己嫌悪に陥りました。

ただでさえ高くない能力値が、ますます低下しているようで嫌悪感と恐怖感に苛まれる毎日。

さらに妻の一言が追い打ちをかけます。

休職して初めて病気のことや今までの経緯を伝えました。

病気を打ち明けた私への第一声は

『お金どうするの?』でした。

もちろん現実的にはその通りです。

子どももいる、ローンもある、生活費はどうする?

しかしそんなことは誰より自分が分かっています。だから焦っているのです。

それでも、だからこそ、あなたの口からは自分を気遣う言葉を言って欲しかった…

残念ながら妻はメンタル疾患に対する理解が当時はありませんでした。
私も弱みを見せることを忘れてしまっていました。
その結果、うまく自分の気持ちや容体が伝わらず、最も身近な存在に何度も心を抉られました。

メンタルダウン時のパートナーの支えは絶大です。

しかし必ずしも家族が精神疾患や休職に理解があり、最初から適切にサポートしてくれるとは限りません。家族だからこそダメージが大きい態度や言葉もあります。

「衝突と和解を繰り返しながら、今では病気や新しい人生に対して肯定的に捉えてくれるようになっています」

当時の現実的な正論しか言わない妻に嫌気が指し、だんだん話すこと自体を止めてしまいました。

精神的に支えもなく2か月が過ぎたころ、私は今の状態や環境に耐えきれなくなり半ば強引に復職しました。

仮初めの復職と転職

『全て元通り!仕事には全く支障ありません!』

回復ぶりをアピールすべく初日からトップギアで業務に取り掛かりました。

しかし、かつてのパフォーマンスが発揮できていない気がしてならない…

誰も私の仕事にダメ出しをしないことも逆に気になる…

打ち合わせに参加する頻度が少なくなった気がする…

人事と上司は異動や降格をさせようとしている…

もう私は必要とされていない気がする…

全て気がする、です。確証はありません。ただこの時は事実と感情を冷静に切り分けることができませんでした。

湧き上がるネガティブな妄想。哀れみを帯びたような上司や同僚からの視線に耐えられず、復職後、僅か3か月で私は退職・転職しました。

「この環境から離れればやり直せる!」

そう信じ転職サイトに登録しエージェントとすぐ面談。病気や休職について一切話しません。

未経験でもチャレンジするやる気、若さ(当時)を前面に押し出したことで、とんとん拍子で選考は進み、応募から2週間で内定が出ました。

今思えばこれを評価するのは完全にブラック企業。しかしとにかく仕事に就くことを優先し気にも留めませんでした。メンタルが弱っている時こそ慎重な就活が必要です。振り返れば本当に大失敗です。

転職先は前職と大きく変わり20名のベンチャー。前職の経験を多少活かせることもあり、入社当初から運良く成果を残すことができました。営業から社内ドキュメント(契約書、規約)の整備、コンプラチェック、新規人材事業の立ち上げなど、ベンチャーらしく管理から企画まで様々な仕事に携わりました。

病気の暗い過去を誰も知らない環境に来れたことで、気持ちが晴れやか(ハイ)になっていたこともあります。

過去に蓋をして新たな仕事に邁進しました。再び朝6時から夜22時まで仕事に打ち込む日々を過ごします。

ベンチャーは売上至上主義。前職での経験を活かして安定的に大口顧客が獲得できたこともあり、入社2年で執行役員ポストに昇格しました。

「適応障害も休職もなかった!診断は間違いだったかもしれない」

管理職となり社長含む経営層とのやり取りが増えました。

会社の上場を目指し、経営層と意見を真っ向からぶつけ合うこともありました。

意見を戦わせることは良いことだとお互いが認識してやっていたのですが、次第に社長の態度が変わっていきます。

事業が計画通りに進まないことに「なぜできないのか?」「責任はとれるのか」と何度も詰問され、最後には「親として情けなくないのか?」と家族を引き合いに私の人格を否定するような言葉も出てきました。

当時の同僚の話では「労災で通るレベルの罵詈雑言」とのことでした。

それでも歯を食いしばって耐えました。

「病気で弱っていた自分を拾ってくれたのだから感謝しなければ」
「ここで再び失敗するわけにはいかない!」

毎朝玄関の鏡を見ては自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせて会社へ向かいました。

そして前回と同じく、限界は突然やってきました。

業務時間中に、周りの声が一切聞こえなくなるほどの気分の落ち込みと頭痛、さらに目の痛み、顔面の痛みに襲われ、急いで病院に行きました。

『今すぐ休職の相談をしてください。医師の立場としては働くことを容認できません』

今度は適応障害ではなく「うつ病」という診断でした。

私は1度目の休職で何も学んでいませんでした。

人生で二度目の休職

私は自身で作成した会社の就業規則に沿って、会社としては初となる、そして私は人生で2度目となる休職を申し入れることになりました。

休職を申請したとき、自分のこれまでの人生すべてが否定されたような気分でした。

「またやった」

「何も学んでいない」

「真の社会不適合者」

「こんな父親で子どもが可愛そう」

今だからこそ言えますが

『自分は消えてなくなって家族に資産を残すことがベストな選択』

と本気で思っていました。

今まで自分に関わってくれた人に、家族に、何より子どもに申し訳ない、自分の情けなさや不甲斐なさに涙を流しました。

不定期に会社から連絡が来るたびに恐怖で目の前が白くなりました。

受信メールを確認するだけで過呼吸になり、メール返信をするだけで疲労困憊してしまうような状態でした。

もうかつてのように勉強や読書をする気も起きません。

死ぬでもなく生きるでもなく、ただ漫然と生きる日々。薬も飲んだり飲まなかったり。当然、回復の兆候は見出せません。

そんなあるとき、ふとLINEを開いてしまいました。

というのも、当時は人と会うだけでひどい自己嫌悪に陥ってしまうので、周りとの接触は極力避けていました。

その人は私の大学時代からの先輩で、早々に会社勤めを辞め独立し、FIREを達成して悠々自適な生活を送っている人でした。

そんな人からの通知を偶然にも開いてしまいました。

ただ「会社員生活をしていない浮世離れした先輩ならいいか」と思い、会ってみることにしました。

久しぶりに会う先輩は相変わらず余裕に包まれていました。

『なんだよその顔は?どうしたんだ?』

開口一番にそう言われ、私はこれまでの経緯を自嘲気味に伝えました。

死にたい、でもそんなことはできない、だから新たに資格でもとって再起を図ろうかと…。

なぐさめの言葉を予想していた私に対して彼は、



「バッカじゃねえの?」

あまりにも予想外過ぎる返答に思考が停止しました。

私の感情が変化する前に、言葉が続きます。

「今のお前じゃ話にならない」

「俺がなんとかしてやるから、とにかく1ヶ月死ぬ気で休め。絶対に仕事なんてするな。資格の勉強もするな、ビジネス本なんて読むな、遊びと休みだけしろ。それでまた会おう、絶対。」

そう言い残して、先輩は去っていきました。

まるで台風。それでも、その姿は突き放すようには感じられませんでした。

自信も何もかも失っていた私は、ただ先輩の言葉を信じ、すがることにしました。

私の戦略的休息

翌日から仕事内容:休むことの生活が始まりました。

とはいえ、いきなりアクティブにはできないもの。
もともと好きだったのに、ずっとご無沙汰になっていた映画や漫画を見るところから始めました。

近隣は人の目がはばかられるので、少し遠くの公園に行き散歩、ジョギング、そして次第に登山など1日使うような趣味も再開しました。

この余暇は、次につながるための仕事だと言い聞かせました。

今も思えば、ここで休むことに対する罪悪感やマインドブロックから解き放たれたのでしょう。

誰の目を気にするのでもなく、「やりたいからやる」「行きたいから行く」旅行や今までやったことのないアクティビティもチャレンジしました。

すると、やはり疲れてしまうので、休息も仕事のようにスケジュールに組み込んで実行しました。

サウナに一日中いることもありました。

とにかく休みに没頭していることで、ある不思議な感覚に襲われます。

それは、ひらめきです。

登山をしている最中や映画を見ている最中、サウナ室で蒸されている最中、突然、これまでにないひらめきが降りてくる感覚です。

これは特別スピリチュアル的な話ではなく、

・「あのとき、こうしておけばうまくいったのかもしれない」
・「こう解釈できれば良かったのか」
・「こんな可能性があり得るんじゃないか」
・「これをやったら面白いんじゃないか」

などなど、内容は仕事や家庭、時間も過去・現在・未来さまざまです。

日記もつけていたので、ひらめきもすぐメモするようにしていきました。

「これは現在も私が実践しているクリエイティブ思考における”没頭”状態の自覚と発露でもありました」

そして、1ヶ月後、先輩に再会します。

そこで、どのように休んだか、どんなことがあったのか、ひらめきのことなども話しました。

すると、

「ようやく逃げられてよかったよ。ここからリスタートだな」

衝撃でハッとしました。

私が本当に逃げ出さなければいけないのは、今の会社や仕事、ましてや人生でもなく、「休み=悪」とする私の価値観からだったのです。

「そこが変わらないと、いつまで経っても何をやっても同じ地獄だよ」

全くその通りです。そう思うとこの病気も、休職も、自分にとって必要なことだったのかもしれない。まだ人生はやり直せるのかもしれない。

その一言がきっかけで、初めて私は病気と自分に向き合うこと、ちゃんと休むことは悪でも怠惰でもなく生産性につながるもの、かつてに戻るのではなく、ここから人生をやり直すことを考えられるようになりました。

あとから知ったのですが、先輩は私の妻に対しても「休む必要性」を説いてくれていました。すんなりと理解してくれたのはそのような根回しがあってからだと後から気づき、本当に感謝しています。

将来不安ではなく『やりたいからやる』

家族、健康、そして本当に自分がやりたいことをやる。

病気の前とは明らかに違うキャリア、価値基準や判断基準が自分の中に形成されていきました。

灰色で時が止まっていた自分の人生に、少しづつ色が戻っていくような感覚でした。

現実的な話、休職中にお金に困らなかったことも大きな安心材料でした。傷病手当金を原資に生活基盤を確保しつつ、不足分は資産形成や生活費の見直しと副業等の金策で確保することで旅行などの家族との余暇も過ごすことができたのは精神的に大きかったです。

先輩にもずっと相談に乗ってもらいながら、私はこれまでの自分に区切りをつけ、復職ではなく退職を決意しました。

復職を否定するわけではありません。ですがかつて復職に失敗したこと、休職中に新たに学んだことに自分の熱意や関心は既にありました。本気で新しい自分になりたかったのです。

そこで私が取り組んだのは、一般的な「履歴書」や「職務経歴書」ではなく、「ビジネスポートフォリオ」の作成でした。

これは単なる職歴の羅列ではなく、自分のスキル、経験、強み、そして実績を体系的に整理し、「会社以外の場所」でどう活かせるかを明確にしたものです。

休息によって生まれた「意識的な余白と空白」が生まれたことで、私は長年蓄積していた自分の強みを思い出しました。

私は事業の入札のプロポーザル作成(ようするにサービスや製品の提案書)や業務請負のための人材のプロフィールや経歴情報作成、さらに元請け企業として、プロジェクトを任せる人材の採用、調達と社内決済の作成を山のようにこなしてきました。

そこでは、いかにして「自社やチームの強みを相手に訴えるか」と、発注者として「どんな提案なら社内的に採用しやすいか」という双方の視点が磨かれました。

そのおかげか、私の提案する入札書類は非常にウケがよく、別の部署の添削も任されていました。

その経験を自身に置き換え、自らの経験を客観視し、新たな可能性を見出すツールこそがビジネスポートフォリオです。

この「ビジネスポートフォリオ」が私に想像を超えた出会いとチャンスをもたらしました。大学での准教授の職や企業の人事顧問、キャリアトレーナーなど、会社という枠を超えた活躍の場を創り出してくれました。

さらに、これらの仕事は互いに相乗効果を生み出し、一つの組織に依存せず、複数の収入源と活躍の場を持つ「キャリア複線化」を実現することができました。

今は1日6時間の労働を基本としながらも、家族を養うことができています。作業効率でいえば以前の3倍近くになりました。

現在の平日スケジュール
現在の基本スケジュール

それ以上に、時間ができたことで、家族と接する機会、そして自身の健康という値段のつけられないものも手にすることができました。

時間管理を超えた自己管理

私が退職のあいさつをした時、唯一病気休職を明かした取引先の方がいました。

そこは外資系企業で社員のメンタル疾患に対する考え方が日本と全く異なり「うつ病は優秀な人がかかる病気」であり「病気になった人を回復させないことは社会の損失」という考えのもと、国も企業も様々な復帰支援プログラムを用意しているとのことでした。

「キヨさん優秀だから大丈夫。また会えるのを楽しみにしてるよ」

と言ってくださいました。

もちろん社交辞令ですが、当時の私はとても励まされました。
そして、今、私の人事顧問先の一社です。

過去の自分の努力も決して無駄ではなかった。何もかも最悪なのではなかったんだ。このご縁も、過去と未来をつなぐ私の宝物です。

私は自分の経験を通じて、社会人が基本的に学ぶであろうビジネスマナーやキャリア・スキルアップと同じレベルで「休む」スキルが普及することが必要だと思っています。

過労はすべてを歪めます。

時間があれば、健康であれば、絶対に起こらないであろう判断ミスをしてしまいます。それが重なることでその人の人生は取り返しのつかないことになる可能性もあります。

疲労を取り除くためには休息が必要です。でもそれは本来的にみんなが分かっている。ではなぜ休まないのか。そこに大きな壁があると思うのです。

かつての私のように、自己肯定感の低さや会社組織によって植えつけられる休む=悪というマインドブロックはまだまだ根強いでしょう。

私の場合は運と人に恵まれ、どうにかこうにか現在に至りますが、同じ時期に通院し始め、セラピーを通して知り合った方は復帰どころか悪化の一途をたどっている方も少なくありません。

恐らく、病院に通うだけの生活では、ここまで早く復帰はできなかったでしょう。また、ここまで大幅に違うキャリアを選択することもなかったでしょう。

私の「休む」マインドブロックを外し、休息を思考の一環ととらえる思考術の基礎を教え、その間、見捨てずに伴走してくれた精神科の先生、そしてビジネスの師である先輩という支援者のおかげです。

私は自分がしてもらった経験を私ができる限りお返ししたい。

ですが、医療従事者ではありませんので、医療的な支援はできません。

しかし、医療的な支援と同じくらい、私にとって大切だと感じた「休息を含めた時間管理」そして「キャリア複線化」の支援はできます。

「戦略的休息」で掴んだキャリア複線化と本当の安心感~

現在、私は新たな取り組みを始めています。

それは個人への戦略的休息を基盤としたキャリア複線化支援です。

日本を代表する企業でも終身雇用制度を廃止する動きが出てきています。

政府もキャリア形成や資産形成を自分自身で進めていくための法律や制度改革を進めています。すべての世代が副業に関心を持つ中、いろんな副業が台頭してきました。

ブログやアフィリエイト、物販やSNS運用のほか、スキマ時間を使ったアルバイトサイトも注目されていますね。

しかしながら、そうしたすぐ収益につながる「即金性」の高い副業は、知識や経験が積みあがりにくいため、常に高い競争環境にさらされ、発展性や継続性に乏しく挫折しやすいという側面もあります。

また、本業がありながら時間がないなかで別の活動を継続していくことはとてもストレスがかかります。時間だけでなく身体的にも精神的にも余裕がないなかで副業を始めてしまうと、現在の仕事や生活にも悪影響を及ぼすこととなり本末転倒ですよね。

『休息という基盤なきキャリア戦略は砂上の楼閣である』

これは私が休職を経験し、常に心に留めている言葉です。

副業をやりたいと思っている人は社会人の5割、検討中は3割、そして実際にやっている人は1割といわれます。

しかし、副業に取り組んでいる人の50%は月1万円程度の収入で、月5万円以上の副業収入を得られている人は15%にも満たないのです。

そして、それらの人の半分以上は副業を2年以上継続している人たちなんです。

数字で見るふくぎょう
現実問題、ハードルは高い

「少ない時間で最大限の効果を得るには、本業と副業の相乗効果が不可欠」

SNSには「未経験でも〇十万円」「はじめて1か月で収益化!」と煽るような言葉があふれていますが、実態はそう甘くありません。

私の経験上、本業に近い「キャリア複線化」だからこそ、継続できる可能性が高まります。

休息がもたらす「気づき」からビジネスポートフォリオへ

休職中に私が発見したのは、「休むこと」の真の価値でした。

それは単に疲れを取るだけではなく、普段は気づかない自分の強みや可能性に気づくための「意識的な余白」を作ることだったのです。

サウナに入っている時、山を登っている時、映画を観ている時…日常から離れた状態で、私は自分自身について新たな視点を得ることができました。

「あれ?この経験、もっと別の形で活かせるんじゃないか」
「この知識は別の業界でも通用するかも」

そうした気づきを整理していくうちに、私は一般的な履歴書や職務経歴書とは全く異なる「ビジネスポートフォリオ」という概念に行き着きました。

これは会社の中での自分ではなく、「社会の中での自分」の価値を再定義するものです。

ビジネスポートフォリオと履歴書・職務経歴書の違い

ビジネスポートフォリオの特徴

ビジネスポートフォリオの作成プロセスでは、自分の経験を「会社の肩書や役職」から切り離して考えるため、思いもよらない強みや可能性に気づくことができます。

私の場合、当初は「建設会社の管理職」という枠組みでしか自分を定義できませんでした。

しかし、ビジネスポートフォリオを作成する中で、私が持っていた「土壌汚染対策への専門知識」「プロポーザル作成能力」「人材育成スキル」などが、大学教育、企業コンサルティング、キャリアコーチングなど多様な分野で価値を持つことに気づいたのです。

この「気づき」こそが、私のキャリア複線化の出発点になりました。会社一筋だった私が、大学の教壇に立ち、企業の人事顧問として活動し、個人向けのキャリアコーチングをすることになるとは、以前の私には想像もできませんでした。

本業の専門性を活かした複業は、すでに高い専門性があり、それが自信となります。

本業を捨てるわけではなく、安定があるからこそ、必要以上に収益にこだわり過ぎる必要がありません。だからこそ継続ができるんです。

継続できることは能力を磨き続け、実績を積み上げ続けることになります。これはいわば、本業と副業が互いを高めあう好循環の始まりです。

ビジネスポートフォリオ作成サポート

「ビジネスポートフォリオ(BP)作成サポート」をnoteにて有料販売中!

こちらは、私がリスキリングスクールで通常3万円で受け付けているものです。

note購入者限定特典イメージ
note購入者限定特典です

ビジネスポートフォリオとは、あなたのキャリアや強みを体系的に整理し、外部の人にも伝わるようにまとめたものです。これは複業案件の獲得において、最も基本的かつ重要なツールとなります。

あなたが磨いてきたスキルや経験は、現在の会社以外の環境でどのように活用できるでしょうか?

私たちはつい「自分には特別なスキルがない」と思いがちですが、実はそんなことはありません。日々の業務の中で身につけた知識、経験、人脈は、きちんと整理することで大きな強みになります。

BPの作成プロセスでは、以下のことを行います

1.経歴の棚卸し – 今までの職歴や実績、スキルを整理します
2.強みの言語化 – 他者に伝わる形で自分の強みを表現します
3.スキルマッピング – 自分のスキルがどんな業界・仕事に活かせるか可視化します
4.訴求ポイントの整理 – 自分をアピールする際の最も効果的なポイントを明確にします。提案者・発注者視点でのノウハウから採用する言葉にも細心の注意を払います。

このプロセスを通じて、あなた自身も気づいていなかった可能性に気づくことがあります。「こんな仕事ができるかも」「自分の経験はこういう角度から見ると価値があるんだ」という発見は、新たなキャリアの扉を開くきっかけになるでしょう。

この続きはnoteをご覧ください