この記事では、本当につらいとき相談すべき相手か見分ける「3つの条件」をみつけましたのでご紹介します。参考にしてみてください。
うつ病と診断され休職したとき、最初に相談したのは妻。それが大きな過ちでした。自信を無くし、理由のない辛さと悲しみに暮れ、誰とも会いたくない、話したくない。でも時折、無性に誰か相談したくなる。幾度の衝突と失敗の末、本当につらいとき相談すべき相手か見分ける「3つの条件」をみつけました。
D言葉を使う人
「だって」「でも」のような、否定する意味合いを持つ言葉たち。他にも「だけど」「だから」「どうせ」などあります。
話を聞いてほしいだけなのに否定や反論ばかり。自分は深刻で大きな悩みだと思っているのに、「でも、誰しもあるよね」「だからってどうしようもないよね」と問題を矮小化してしまう人。
普通の状態なら反論できますが、本当につらいとき、そんな気力は持てません。ド正論か見当違いの反論を聞き続けるサンドバッグ状態。分かってくれない寂しさに加え「こんなことで悩むなんて自分はダメなやつ」と自己嫌悪まで加速する始末。
仕事には明確な答えと期日があるけど、人の感情に答えはない。むしろ答えを出すことを求めていないときすらある。そんなときは自分を肯定し共感してくれる人にこそ話したい。
アドバイザー気質な人
「せっかく自分に相談してくれたんだから」と意気込んで積極的にアドバイスをくれようとする人がいます。
たいてい責任感が強く、親身になろうとしてくれる善人な方々ですが、本当につらいときは、どんな有効そうなアドバイスも、頭に入らず、心に響かず。「それはそうなんだけどな」と思うばかり。
善意であの手この手とアドバイスに夢中になる人を遮って「アドバイスはいらないよ」とはいえませんね。お互い疲れてしまいます。
私が長年お世話になった心療内科の先生は余計なアドバイスを一切しない方でした。「状況把握」と「質問の回答」に終始徹底。 でも、気持ちや感情の吐露には身を乗り出し親身に聞いてくださいました。私はそれが心地よく、毎度通院の日を心待ちにしていました。
似た経験をしている人
子どもが老眼の苦労を理解できないように、メンタルの問題も経験者でなければ理解できないことが多くあります。
やさしく温かい共感言葉も嬉しいのですが、自分と 同じ苦労をした経験者の言葉には説得力や安心感が宿ります。何よりも経験者として、当時「嬉しかったこと」「辛かったこと」を配慮してくれる点はとてもありがたく感じます。
経験者であれば誰でも良いわけではありません。 私の妻は、学生時代にメンタル不調で不登校を経験しています。周囲の支えで立ち直った背景があるのですが、D言葉の使い手で、共感も少ない。いわゆるサバサバ系。
「さすがに経験者なので大丈夫だろう」と思いきや、普段と変わらない塩対応に落胆したことをよく覚えています。
また違うタイプですが「自分も乗り越えたから絶対大丈夫!」「○○が効くからすぐやって!」と共感そっちのけで自分の回復エピソードをゴリゴリ押し付けてくる人もいます。経験者ほど慎重な見極めを。
過去に妻との相談やりとりをSNSに投稿をした際、「奥さんひどいですね」とコメント頂きましたが、私は妻を一切恨んでいません。心から愛し、信頼しています。常に冷静な対応に何度助けられたことか。
ただ彼女は「弱ったときの相談相手ではない」というだけの話です。 むしろパートナーに「完全」を求めることが、独善的で危険なことだと思うのです。
私の場合、家族への相談は「素人への無茶ブリ」と考えています。 野球選手にいきなり剣道を挑み、反則をしてきた野球選手を恨みますか?ルールも教えず勝手に挑んだほうがおかしいですね。家族が期待した回答でなくても、恨むのは筋違いです。
心が弱ったときの相談は、精神科やカウンセラーなど職業として成立するレベルの行為です。
「でも家族なんだから…」
その気持ち、痛いほど分かります。私も「そうあるべき」と考えていました。
でも結果はお互いが傷つくだけ。 自分のことで頭がいっぱいで、受け止める相手の気持ちや負担を忘れていました。
必ずしも親しい人が相談相手である必要はないと思います。大切なのは自分と大切な人が前向きになること。医療機関に限らず、公的機関やカウンセラー、相談ダイヤルも一つの手段です。